大平宿の風景 昔と今

大平建築塾を開催するきっかけとなった大平の9棟の民家の改修から16年以上の年月が流れました。

その間、毎年大平宿の様子を見守ってきました。この期間でも下紙屋などが焼失するなど苦難の時間が流れています。

昨年、元住民のAさんを交えて当時の様子をうかがうなど貴重な時間を持てました。

そのときに貴重な写真集を拝見し、当時の様子をわずかに知る機会になりました。

そのルポルタージュ「集団移住」、また紙屋にも当時の展示写真かあり、移住前の生活やその直後の大平宿の様子をうかがい知ることができます。

 

離村は昭和45年、大阪では万国博覧会が開催された年でした。

これらの記録は、戦後日本の山間地域の縮図といえるようにも思えます。この状況の基本部分はいまでも変わっていません。

 

無住となった集落に取り残された建物は今なお生き続けています。

しかし、それはかろうじてという状況と認識したほうがよいのではないか、とここでは問いかけておきましょう。

「いや、そんなことはないよ」という声を聞きたい思いはもっています。

今年(平成21年)になって行政も交えた保存再生の動きが再び活発に出てきたようです。この動きに期待したいと思います。

生活文化同人としても毎年開催している大平建築塾では、時間の経過に伴う民家の変化の様子を図面化、記録化して見守っていくこと。これが私たちに今できること思っています。 昔と今の大平宿を見てみましょう。

(2009年記)

 

  ルポルタージュ

   「集団移住」

  -大平とその人たち- 

  撮影:日本報道写真連盟飯田支部 

  解説:大沢和夫 飯田女子短期大学教授  

  発行:昭和47年1月10日

 

(注)このページのモノクロ写真は

(A):ルポルタージュ「集団移住」より抜粋転載させていただきました。

(B):「紙屋」に展示写真を複写させていただきました。

 


左:大平宿全景(A) 右:大平宿全景(A)棟名入り

左:写真集に掲載の石柱(A)  右:今の石柱の様子(2008年) 

飯田から登ってここまで来ると大平宿までもう少しというところ、昔も今もそれは変わらない。

大平宿 (右 きそ道  左 いいだ道) 奥は「からまつや」

左:「下紙屋」前から石置き屋根の「おおくらや」の方を見る(A)

右:2007年夏の様子 「おおくらや」の軒先は街道境で切り取られることなく修復された。

 

 明治45年の絵葉書(B)・・・紅葉名勝大平全景

(A)ルポルタージュ「集団移住」

 

左:郵便局(手前)と「満寿屋」 昭和31年2月の大雪(B)      右:「紙屋」の軒下より「満寿屋」を見る(2007年)

「満寿屋」横(郵便局跡)から 「からまつや」を見る(2008)

左:山の架線場から宿場側を見る。(A)

  左に蔵のある民家が「紙屋」。右に平入りで見えるのが「下紙屋」でその横あたりに架線を引き集材していたようだ。

右:下紙屋手前に見える台が集材関係(渡場)に使われていたのだろう。(B)

左:「下紙屋」(1997年夏)

右:今の様子(2008年)「下紙屋」は平成12年(2000年)に焼失の後に再建されている。

下紙屋の説明


開祖の碑側より旧街道を見上げる(A)

左側に「藤屋」その向こうに「∧大蔵屋」「おおくらや」が見える。

左:「八丁屋」の軒下より旧街道を見上げる(2004年)

  建物の周辺が樹木で覆われていて住人のいない環境であることがよく分かる。

右:「∧大蔵屋」街道側(2005年)

左:「おおくらや」の南面(A) 

  今は唐松林と雑草で鬱そうとした状況になっている。

右:「おおくらや」街道側(2006年)

旧街道 奥に見える民家は、「からまつや」(左)と「深見荘」(右)

集団移住直前と考えられるこの写真では子どもの走る街道の両側の民家は焼失してしている。左側の庭木が焼け焦げているように見える。

昭和45年焼失前の集落の様子の再現(画:吉田桂二先生)

一番手前の屋根が「からまつや」

左:「下紙屋」前から旧街道の見上げる正面に「紙屋」が見える(A)

右:離村直後の様子(A)

ルポルタージュ「集団移住」のあとがき(A)