古宿場の民家を残したまま、住民が集団移住して無住の集落となった山中の弧村、大平宿にかかわって30年近くになる。
大平の民家は立派な家ではない。
歯に衣を着せずにいうなら、ボロ屋というべきであろう。
しかしそうした家々が語りかけ、それに心を燃やす人たちがいて、その渦中に過ごす日々は、建築家などという小さな枠を超えた自分というものを気付かせてくれた。
その中身を話せるだけの言葉をまだ知らない。かろうじてそれを「原点」という言葉にしておく。
2009年 吉田桂二
紙屋
大平宿に残されている民家には、江戸末期から明治にかけての、山村においての茶屋宿の面影が顕著に見られる。
その特徴の一つは、木材資源に恵まれた山村として全戸が緩勾配の板葺き石置き屋根であること。
もう一つは、これも全戸が茶屋宿の特徴である前土間持ち、山中ゆえの寒冷地としてイロリのある広場を中心とした取巻き広間型間取りであること。
さらに一つは、宿場らしく街道面をせがい造り(出桁造り)にしていることなどがある。
大平宿に見られるせがい造りには三つのタイプがあって、その一つは、平入りの街道面の軒のみを出桁にしたタイプ。このタイプの民家が最も古くて江戸末期。
その二は、妻入りの街道面の妻壁から上を出桁にしたタイプで妻壁中央に窓をつける。
その三は、平入りの街道面の2階、といっても形だけで寸のつまった2階だが、そこから上を出桁にしたタイプで疑似2階窓をつける。このタイプが最も数多く明治期に属する。
他にせがい造りではないタイプが2戸あってこれは付け庇タイプ。最も古いタイプに次ぐ古さと推定される。
以下、「住宅建築」1994年5月号 26頁~31頁抜粋
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